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震災地をめぐるふたつの新聞社の物語

2012年7月7日

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「新聞が印刷できないなら、壁新聞はどうだろうか」

  宮城県石巻市にある地域紙の石巻日日(ひび)新聞社長の近江弘一は、報道部長の武内宏之に問いかける。

  「やりましょう」

  日日は、部数約1万4000部の夕刊紙である。

  2011年3月11日、巨大津波によって、印刷機能を失った。震災の夜は深まって、近江は翌日の新聞を手書きで発行することを決めたのである。

  仙台市に本拠を置く河北(かほく)新報社長の一力雅彦は、編集幹部を集めてこういった。

  「河北は地域のひとたちに支えられてやってきた。地域のひとに恩返しをするために、新聞を出し続けよう」

  編集局長の太田巌も、編集部長の武田真一も、翌日の朝刊をなんとしても発行するつもりだった。

  仙台市北部にある最新鋭の印刷工場は、稼動が可能だった。しかしながら、本社にある編集機能を持つサーバーが立ち上がらなかった。

  災害時に相互に編集と印刷を助け合う協定を結んでいた、新潟日報で紙面を制作することになった。

  ふたつの新聞社の物語は、それぞれが別のドキュメンタリー・ドラマになった。日本テレビは、「3.11 その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞~」、テレビ東京は、「明日をあきらめない…がれきの中の新聞社~河北新報のいちばん長い日~」。大震災の1周年の前後に相次いで放映された。

  ドラマの登場人物が話す地名は、筆者の記憶を呼び起こす。思い出す風景には、父母や弟や友人たちの懐かしい顔が浮かび上がる。

  気仙沼、雄勝、志津川、万石浦、荒浜……

  そして、筆者は、新聞記者として、社会人の第一歩を踏み出した。出発地は九州の小さな支局勤務。日日や河北の記者と同じ「地方記者」だった。

  「日日新聞の水沼ですけれど、ちょっと写真を撮らせてもらっていいでしょうか」

  記者の水沼幸三は、避難所になった学校の教室のドアをそっとあけて、声をかける。毛布にくるまって横になるひとが、床を埋め尽くしている。

  震災の翌朝、仙台から気仙沼に夜を徹して、同僚とたどり着いた記者の丹野綾子が目撃したものは――

  幼稚園の名札を胸につけた、こどもの遺体を抱く父親。死を認めがたい父親は、丹野が乗ってきた乗用車に同乗して、避難所の医師に診断を迫る。

  がれきに埋もれて足先だけがのぞいた遺体。安置するところへ移そうとする丹野に向かって、消防団員が声をあららげる。「このままにしておけ。生存者を探すことのほうが大事なんだ」。

  日日の壁新聞の締め切りは、迫っていた。社長の近江は、停電の町では夕暮れまで読めることが必要だと判断した。掲示する場所は、避難所4カ所とコンビニ2カ所に決めた。計6枚の新聞である。

  編集部長の武田が読み上げる原稿を、近江が新聞用紙を切り裂いて作った壁新聞に書いていく。

  「武田さん、そんなに入らないよ。まず、大きな災害が発生したことを載せよう」

  手書きの壁新聞に大きな横見出しで「日本最大級の地震・大津波」、そして、左側に寄せて、これも大きな字が躍っている。

  「正確な情報で行動を!」

  河北の三陸町にある志津川支局は津波で跡形もなく流された。駐在している記者の渡辺龍は、本社に幾度も連絡を取ろうとしたが、通信は不通だった。震災後の朝刊の締め切りが迫っていた午後7時ごろ、奇跡のようにつながった。渡辺は見たまま、聞いたままを、撮影したデジタルカメラの写真をみながら、電話に出た記者に口伝えのように、書き取らせた。

  朝刊の社会面トップに、渡辺署名のルポルタージュが載った。

  「大津波 街消えた」。

  気仙沼の取材に動き回った、河北の丹野は取材拠点の総局のビルにたどりつく。階段を上がって、総局長の菊池道治を探す。菊池はデスクに向かって、紙に原稿を書いていた。

  「俺は新聞記者失格だ。うかつに外に出て、津波に飲まれた。携帯もカメラも失った」

  手書きの原稿は、丹野によって本社に運ばれ、翌日の社会面に載った。

  「『支え合い』。現実感の乏しい地獄絵の世界で頼れるのは、そこに確かにいる身近な人だけだ」と。

  菊池は、フェンスによじ登り、柱にしがみついて生き残った。老夫婦に着替えをもらい、おにぎりをもらった。

  日日の編集部門の現場を取り仕切るデスクの平井美智子は、取材のつかの間に避難所の父母を訪ねる。ひとつの毛布にくるまって、母と語り合う。壁新聞の発行を賞賛する母にこう答える。

  「情報が光だったんだ」

  放映からかなり時間が経つドラマを取り上げることに、読者が不思議がられるのは当然だろう。

  ふたつのドラマは、録画のままハードディスクに眠っていたのである。

  日日と河北の記者のような過酷な取材の経験はない。ただ、水害地で孤立した避難所まで、肩まで水につかりながらたどり着いたことはある。事件や事故で亡くなった遺体と取りすがる遺族を取材したことはある。

  震災地の記者たちのつらさを思うとき、これまで「再生」できなかったのである。

  日本テレビとテレビ東京に、再放送をお願いしたい。もっと多くのひとに観ていただきたい。(敬称略)

 

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