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「説明責任」とは何か ➀

2017年5月2日

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政治経済情報誌・ELNEOS 5月号寄稿 ほまれもなく そしりもなく 「田部康喜」広報マンの攻防」

 東芝は四月一一日、二度にわたって延期した二〇一六年四月~一二月期の連結決算を発表した。監査法人の適正意見がない異例の事態。債務超過額は二二五六億円に上った。

 メディアは東芝に対して幾度も、「説明責任」を求めた。

 国会では、森友学園が国有地を周辺の地価に比べて格安の価格で手に入れた問題について、与野党が「説明責任」をめぐって対決している。

「説明責任」は魔法の呪文のように万能な言葉として使われているのではないか。その意味は、いったい何なのだろうか。

 ここでは、東京大学大学院教授の山本清氏の『アカウンタビリティを考える どうして「説明責任」になったのか』(NTT出版)をてがかりとして、その問題を考えてみたい。「accountability」が日本語に訳された瞬間に本来の意義が変質したことを山本氏は明らかにしている。

 アカウンタビリティは「ガバナンス」や「ネットワーク」と並ぶ「現代版の三種の神器」である、としたうえで山本氏は、それが「善」なるものであるという暗黙の前提がある。しかし、これに対しても山本氏は疑義を提起する。

 まず、「accountability」が「説明責任」とされたのは、国立国語研究所の外来語委員会による。外来語が言語のままで表されているに対して、日本語かの取り組みが二〇〇〇年代初めになされた。

 原義は古代アテネの民主制にさかのぼり、「自己の行為を説明し正当化する義務で、説明者はその義務を的確に果たさない場合には懲罰を受ける可能性を持つ」である。

 欧米はこの意味を念頭においている。それに対して、日本の「説明責任」は懲罰を受けるという責任の概念が希薄となっている、と山本氏は指摘するのである。このことは、グローバル化した世界のなかで、他国が要求する「accountability」と齟齬をきたしている。

 こうした視点から、山本氏は「マスメディアは我が国でも公式な統制・評価や監査制度を補完するものとして重要な役割を果たしているが、その利点と制約も的確に認識しておかなければならない」と述べている。つまり、「説明責任」という曖昧化した日本の概念を補完するものとして、メディアの存在をあげているのである。

 日本企業の「accountability」を説明すればよし、とする日本版の視点から国際標準にするためには、メディアの取材の前面に立つ広報パーソンの役割は重大である、と筆者は山本氏の論述から考え至るのである。

 東芝の広報部門に対するメディアの批判は、適時開示がなされていないことに集中している。それよりも世界に通じない「accountability」であることが致命的なのである。

「日本社会には『誰が』、『何に』責任があるかを事前に明確にして、初めて成立するアカウンタビリティ概念と主体の特定化が欠如している」と、山本氏は指摘する。

さらに「国民は社会に対する報告責任もなく、あるのは事後に社会から圧力が国民にかかってくるのである」と。日本版「アカウンタビリティ」の病巣は深刻である。

         (この項続く)

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