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政治の季節の広報 ②

2016年3月16日

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ELNEOS 3月号  「ほまれもなく そしりもなく」 田部康喜 広報マンの攻防戦

 自由民主党は人材の発掘を目的として、所属議員の事務所で研修するインターンシップに地方の学生も参加できるように、受け入れ人員を現在の三〇人から一〇〇人に増やすとともに、地方の事務所でも受け入れる。

さらに、現在四〇都道府県で開いている政治塾を空白だった福岡や静岡でも開校して、全国に広げる。

 いずれも、日本経済新聞の二月一二日付朝刊のベタ記事である。

 メディアの政治部は政局を追うことを取材の第一義としている。政党の在り方や方向性は、こうしたベタ記事のなかに現れる。

 自民党は明らかに「近代化」を図っている。各選挙区の候補者が、その選挙区の党員による投票と幹部による面接によって決まるようになれば、英国型の選挙活動に近づく。

 このシリーズは、工業大学マネジメントセンターの准教授である、西田亮介氏の最新刊「メディアと自民党」(角川新書)を補助線として、自民党の広報戦略の高度化と、それに対していまだに対応しきれていないメディアの問題について考えてきた。

広報戦略の高度化は必然的に、政党自体の在り方を変えていく。冒頭に紹介した、自民党の人材開拓の幅の拡大は決して、そうした広報戦略と無関係ではない。

 「政治がメディアとの関係性に戦略性を持ちこみ始める」時期について、西田氏は二〇〇〇年代初頭である、と指摘している。

 自民党も民主党もともに、企業のマーケティングやPR、PA(パブリックアフェアーズ、公共的課題に関する広報)の技法を取り入れていく、としている。「この過程において、政党に加えて、『プロ』の存在感が増していった。電通をはじめとする広告代理店やPR会社である」と。

 いくつかのPR会社や選挙の「プロ」たちの名前が登場する。 ここでは、西田氏がインタビューをしたにも関わらず、推敲の過程で削除したであろうと推測する、エピソードを関係者の話を総合して紹介したい。

 民主党が衆院選において一七七議席を獲得して、その後の政権交代に道筋をつけた。広報戦略を担ったのは、広告代理店の博報堂と、PR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン代表の田中慎一氏である。

 田中氏は、ホンダの広報マンからセガを経て、外資系PR会社の日本代表となった。日米自動車交渉において、米国政府の凄まじい広報戦略を経験するとともに、米国の大統領選挙における広報戦略を学んだ。

 政策面では「マニュフェスト」選挙をはじめて掲げて戦わせ、イメージ選挙の面では当時の岡田克也代表の服装や話し方を指導もした。

 そもそも代表の周辺では、PR会社を選挙戦略の策定に加わらせることに強硬な反対を唱える者があったという。

 小泉純一郎首相による「郵政解散」の惨敗をきっかとして、田中氏らは関係を切られる。民主党は広報戦略の重要性を内部に確立することができなかった。

田中氏らに拒絶反応を示した幹部がその後、広報戦略の重要性を知るとともにロビイスト的な仕事に就いたのは余話である。

         (この項続く)

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