ELNEOS 8月号 「ほまれもなく そしりもなく」 田部康喜 広報マンの攻防戦
メディアが名誉棄損の訴訟に敗訴する事例が増えている。
週刊文春の記事によって名誉を傷つけられたとする、元女優の訴えに対して、東京地裁は五月末、発行元の文藝春秋社に四四〇万円の賠償と同誌に謝罪広告をだすことを命じた。
東京地裁はその後、読売新聞の報道によって、中国に情報を流していたされた、元代議士の訴えに対して、同社に三三〇万円の支払いを命じた。
メディアの報道は、社会の利益に沿うものとして、公人である個人を批判する。法人格を持つ企業もまた、その社会的な存在と広範な影響力から、報道の対象となる。
企業とはどうあるべきなのか。メディアの側にいても、企業の側にいても、わたしの念頭から離れることはなかった。いまでもその煩悶は続いている。
いうまでもなく、法律上の規定に基づいて設立されるのが、法人格である。英語のlegal parsonalityがまことに分かりやすい。人格parsonalityを持つのである。
これを補助線として考えるとき、企業もまた個人と同じような人格を問われるのではないか。
資本主義社会において、企業は利益を上げることを求められる。この責任を果たさない企業に対して、メディアはその経営層と戦略について批判する。
それでは、高収益企業であれば批判は免れるのか。そうではないだろう。
メディアは社会の鏡である。そこに映る企業の姿は、経営層や従業員が考えている自らの姿とは異なっていることが多い。
社会の鏡はなにを映すのか。それは企業の人格である。高収益企業であることによって、社会的な地位は確保できる。しかしながら、敬意を払われることは別である。
人々から敬意を払われない個人が、真の友人を得られずに、社会から孤立してしまうと同じように、敬意なき企業はいずれ、社会からかい離していくのではないか。
そうした視点に立って、記者時代は企業を観察したものである。その結果として、その時点ではメディアの喝采を浴びた企業や経営者を批判することになった。
敬意される企業や経営者とはなにか。それは社会の動向に対して謙虚であり、事態の変化に柔軟に即応する力である。
メディアという社会の鏡に映る自らの姿に、そうか、そういう見方もあったのか、と感応する能力である。
ソニーの創業者である、盛田昭夫氏とそのパートナーであった、大賀典雄氏にも、そうした力と能力があったと思う。
ソニーの凋落の端緒を報じた記事に対して、「幾度もその凋落を乗り越えてきましたよ」と大賀氏は笑顔で答えたのであった。
新聞記者から広報室長になる直前の報道も、トップの感応する能力を感じさせる出来事だった。経営破たんした長期信用銀行に、ネット銀行進出を目指して出資した。メディアは、グループ企業に優先的に融資するいわゆる「機関銀行」ではないかと批判した。トップは、この長期信用銀行の役員からグループ出身者を引き上げ、そうした見方を否定した。
(この項続く)