青春の希望と苦悩は時代を超えて
佐藤健と黒木華の夫婦の愛も
WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本 寄稿
宮内省の料理場のトップである主厨長を大正から昭和にかけて務めた、秋山徳蔵の生涯を描くTBS日曜劇場・「天皇の料理番」は、日露戦争を時代背景にスタートを切った。
フィクションを交えていることから主役名は篤蔵と変えて、佐藤健が演じる。婿養子先の高浜家の妻・俊子役は黒木華である。明治から昭和へ。福井の旧家の次男坊が歩む青春の道程は、現代史の上に刻まれていくのである。
第3話(5月10日)に至って、華族会館の厨房の洗い係として働き始めた篤蔵に転機が訪れる。
拾った財布の持ち主が、英国大使館のシェフの五百木竹四郎(加藤雅也)だったことから、華族会館の料理長の宇佐美鎌市(小林薫)には内緒で、仕事の合間に英国大使館でも働き始めたのである。一日でも早くシェフになりたいという、篤蔵の願いに五百木は打たれたのである。
華族会館はかつての鹿鳴館であり、千代田区内幸町の一角には、旧大和生命が建てた高層ビルがある。華族会館は戦時中に取り壊され、その後をしのばせた門も空襲によって焼失した。
旧大和生命の本社があったあのビルの受付に、鹿鳴館時代の建物につかった木材の一部がガラスケースに収められていたのを見た、記憶が懐かしい。
ふたつの料理場をかけ持ちする、篤蔵は仕事の時間に間に合うように、下駄を手にもって息が絶えるようにして走る。内幸町から大手町をかすめて、竹橋、それから一番町の英国大使館まで。
なにものかにせかされるような熱望にとりつかれるのが、青春というものである。明治の青年のそれは、平成の若者の希望と変わらない。それは表現が間違っている。
現代の青年が追い求めている仕事に対する熱情は、明治の青年と変わらない。
そこに、このドラマの現代性がある。
TBSがこの作品を日曜劇場で手がけるのは、1980年以来二度目である。一話完結のドラマも1993年に制作している。それぞれが放映された時代相と、篤蔵に生き方は今回同様に重なり合うのだろう。
篤蔵が料理の修行を急ぐのは、妻の俊子が妊娠したこともある。婿養子先を飛び出した篤蔵と離縁するように、俊子の父親は迫る。
俊子は篤蔵の本心を確認しようと上京し、まさにそのときに身ごもっていることがわかるのである。
青年が社会の入り口に立ったときに、まず何をなすべきか。一人前になるためにはどんな心構えが必要なのか。青年が成長していくとはどのようなことなのだろうか。
さまざまな経験を自己の内面で結実しながら、成長していく「教養小説」というジャンルの永遠のテーマである。
洗い場係として料理をまったく教えてもらえない篤蔵は、宇佐美の机の引き出しから盗んだ料理について書かれた分厚いノートを懐に隠している。料理場に戻ってみると、そこには包丁を研ぐ宇佐美がいた。宇佐美は篤蔵を諭すのだった。
「教えないのは、学ばないからだ。傍で見ながら盗まなければ学べない。小さなことが大きな失敗につながる。鍋をうまく洗えないやつは料理がうまくならない。鍋を洗う。食器を磨く。包丁を研ぐ。それを続ける」
篤蔵は盗んだノートを宇佐美に差し出して、頭を大きく下げて謝る。そして、いつもの罰である下駄で蹴られるのを覚悟で目を強く閉じる。
宇佐美はいう。
「俺も若いころに同じようなことをやったので、蹴るわけにはいかない」と。
包丁を研ぐ音が響く。目を開けた篤蔵は、自分の下駄を両手に持つと思いっきり頭を殴り続けるのだった。
青春時代をくぐり抜けて、一人前になった経験のあるひとなら、転機となった瞬間はあるものである。その瞬間に気づいたひとは幸せである。年月を経て、気づいても遅くはない。
料理人になる夢を追い続ける篤蔵と、妻の俊子の物語もまた、時代を超えた共感を呼ばずにはおかない。
子どもができたことがわかった俊子は、実家に戻る。篤蔵は職場にいかなければならない。道端に妊娠した猫が横たわっている。俊子はいう。
「猫だってひとりで子ども育てるのですから、わたしも大丈夫です」と。
俊子役の黒木華は、語り手役も務めて、抑制した演技とともに、篤蔵との愛情の深さがよく伝わってくる。
青春はひとりで生き抜けるものではない。家族や周辺の人々の支えによって成し遂げられるのである。そのことがわかるためには、月日が必要である。
ドラマのなかで、料理長の宇佐美が「料理は技術ではなく、まごころである」というセリフの「料理」を「仕事」と言い換えれば、若者が成長するために必要なのは実は、周囲に対する感謝の気持ちである、ことになる。
わたしの口調が妙に説教臭くなるのは、年齢のせいとお許し願いたい。このドラマはけっしてそうではない。
日露戦争の戦闘シーンなど、ドラマのなかで記録映像が効果的に使われている。華族会館はいまではないが、ロケには、綱町三井倶楽部(港区三田)や三菱1号館(丸の内)など、明治時代の建築物が登場する。
ドラマの先には戦争の時代がある。篤蔵はそこで人生のなにを見出すのだろう。