脚本監修の野島伸司が描く結末に期待
WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本 寄稿
TBS金曜ドラマ「アルジャーノンに花束を」は、ダニエル・キースの世界的なベストセラーが原作である。欧米で幾度も映画化され、日本では2002年にドラマ化されている。
原作の翻訳や映画、ドラマによってあら筋を知っている、観客に今回はどのような結末に誘ってくれるのだろうか。
脚本監修の野島伸司は「高校教師」(1993年)や「家なき子」(1994年)などで、現代社会を描く問題作を、ドラマの世界で問うてきた。「アルジャーノン」の第1回(4月10日)と第2回(4月17日)は、現代日本の病巣がえぐり出されて、予想外の結末を予感させる。
アルジャーノンは白いハツカネズミである。脳生理科学研究センターが研究の成果をして、知的な行動が格段に進化した。実験室の迷路を巧みに走って、完走までのタイムを向上させていく。この成功を人間の治療に適用しようというのが、実験室の目標になっている。
研究センターの部長である、蜂須賀大吾(石丸幹二)は医薬品メーカーの援助を受けて研究を続けている。アルジャーノンの成功を早期に人間に適用することを求められている。蜂須賀は音楽を志していた息子を、鉄道のプラットフォームから転落する事件で亡くしている。息子が持っていたバイオリンのケースが人に触れたことから、いざこざになったのである。
アルジャーノンの知的な進化を人間にも適用できるなら、知恵によって問題を解決できる穏やかな社会が生まれる、と蜂須賀は理想を描いている。
製薬会社が資金の提供をたてにして、早急な製品化を迫るなかで、理想と圧力のなかで蜂須賀は進むべき道を誤っていく。
研究員の望月遥香(栗山千明)もまた、蜂須賀を秘かに愛しながら、研究チームのなかで気に入らない小久保一茂(菊池風麿)を排除するために、アルジャーノンをわざと外部に逃がして、飼育係の小久保に責任をとらせようとする。
理化学研究所のSTAP細胞をめぐる事件や、内視鏡による手術の失敗によって多数の死者が出たと推定されている国立大学病院、海外から先端医療の利用者を拡大する医療センターでの肝臓移植の異例の失敗の数々……
アルジャーノンが照らし出す現代日本の病理はあまりにも重い。それは、家族の問題であり、いったんドロップアウトした若者たちを社会がいかにして、受け入れ行くかの問題でもある。
街に逃げ出したアルジャーノンがなついたのは、知恵遅れの青年である白鳥咲人(山下智久)である。咲人は人を疑うことを知らない。心が美しい青年として描かれている。
母親の窓花(草刈民代)によって、幼少期から無視されるように育てられて、そのこころの傷は深い。母に愛してもらいたいがために「おりこうになりたい」と願っている。
咲人は花のデリバリーサービスの会社で働いている。15歳のときに家庭から捨てられるようにして、この会社に入ったことが暗示されている。
同僚の若者たちは、少年院や刑務所を出所した、それぞれが家庭などに問題を抱えている。
柳川隆一(窪田正孝)は、離婚して浪費癖からローン地獄に落ちている、母親の暮らしを支えようとして、仲間を相手にいかさま賭博をしたり、株の投資を試みたりしたが、うまくいかずない。そのうえ、仲間の資金を預かって、株で損をしたことがばれて、袋叩きにあって重傷を負う。
野島伸司が監修した脚本は、さまざまな現代日本の問題をからめながら、けっして散漫にならず、またドラマの進展がぎくしゃくしない。過酷な運命を担っている人物と、彼らが直面する問題を丁寧に積み上げていく。
咲人はこれから、蜂須賀らの研究チームによって、知恵遅れが解決して優れた知能を持つように治療が加えられていく。それは第3回(4月24日)以降のことになる。
ドラマの導入部で、こどもの手から離れて空に飛び去った黄色い風船が、公衆浴場の煙突に引っかかったシーンがある。煙突のはしごを登って、それを取ろうとする咲人は、誤って手を放し、風船に支えられて街の空を飛んでいく。幻想的なこのシーンは、咲人の未来を暗示しているのだろう。彼はどこに行こうとして、どこにたどり着くのだろう。
咲人が実験台になることを、遥香(栗山千明)に勧められて、花のデリバリーサービスの社長(萩原聖人)は「いまのままの咲人でいい」という。
友人の企みがきっかけとなって、咲人と知り合った女子大生の河口梨央(谷村美月)も、咲人が知恵遅れとわかっても交際を続けるという。咲人と会社の寮で同室の檜山康介(工藤阿須加)も暖かいまなざしで彼に接している。
「おりこうになる」とはいったい何なのか。それは現代社会に適合して生きるとは何なのかを問うものである。そして、生きる幸せとはなんなのか。
人は自らを変えなければ、いまの社会に適応できないのか。それは、若者たちが直面している心の切迫感である。
その解決策が容易に見いだせるものではないだろう。しかし、このドラマの結末に観客が感じるカタルシスがおそらくその助けになるのではないか。