フジサンケイビジネスアイ 高論卓説 寄稿。
東京・新宿のビル街に囲まれた花園神社は、週明けの仕事始めのサラリーパーソンが参拝の長い列を作っていた。列のなかから聞こえる言葉に耳をすませると、アジアからの外国人観光客に気づく。
神社の本殿の空を切り取ったようにして、今春に開業する30階建てのホテルがそびえ立つ。そんなビル群のカゲに隠れるような路地裏にその食堂はある。いや、そういう設定になっている。主人公は自己紹介する。
「営業時間は夜12時から朝7時まで。人は『深夜食堂』って言ってるよ。客が来るかって?それがけっこう来るんだよ」
漫画家の安倍夜郎氏がコミック雑誌に連載中の「深夜食堂」は、単行本も刊行され、中国や台湾、韓国でも読まれている。韓国ではミュージカルにもなった。
経歴が一切わからないマスターが経営する店は、客が注文するとたいがいな料理は作ってくれる。赤いウィンナーやきのうのカレー、ポテトサラダ……店にやってくる人々は、ひとつの家族のように触れ合いながら、料理を食べる。
読者のファンが広がっている国々では、こうした料理のレシピ本も刊行されている。さらには、観光のついでに、日本の路地裏の店で実際に食べてみようという静かなブームも起きている。
経済成長によって豊かな生活を手に入れてしまったとき、人々はさらに何を得ようとするのか。「モノ消費」から「コト消費」の時代になろうとしているといわれる。「コト消費」の定義はさまざまだが、旅行や観劇、音楽会など、人々を満足させる出来事の理由つまり物語が必要である、ということのようである。
物語はいうまでもなく言葉によってつむぎだされる。歴史学者の岡田英弘・東京外語大学名誉教授は、近代化を先に成し遂げた日本は、あらゆる西洋の知識を漢字によって翻訳していたから、日本語の語彙(ごい)が漢字文化圏の言語に取り入れられた影響は、法律用語ばかりではなく、情緒のある文学作品の創造まで、決定的であった、と説く。
花園神社の参拝を抜けて大通りに出ると、地図を片手にした大勢の外国観光客に出くわす。百貨店の「福袋」が人気だったようだ。大雪の京都で過ごした友人からのメールは室生寺の五重塔の写真が添えられて、かの地の寺々もまた中国人観光客であふれているという。
日本における欧州美術の第一人者である田中英道・東北大学名誉教授とかつて、そうした寺院の仏像を巡った記憶が蘇る。東大寺法華堂の日光・月光菩薩像や戒壇院の四天王像など、天平時代の傑作は、ルネッサンス期のミケランジェロにも匹敵するひとりの仏師よって作られた、とする卓見を説かれた。「国民の芸術」(産経新聞社刊)に詳しい。
信仰の対象である仏像を美術品として眺めるとき、まったく新しい物語がみえてくる。そして、美の巡礼の旅に出てみようという「コト消費」が生まれる。