FujiSankei Business i. 寄稿。
東京・虎ノ門地区にそびえたつ、今夏に開業した森ビル・虎ノ門ヒルズが見下ろすような中小のビル街の一角に、その3階建てのビルはある。「森ビル2」と入口の上部にくすんだ看板が架かったビルは、施錠されて窓は目隠しがされて目立たない。
リクルートの創業者である、故・江副浩正氏はこのビルの屋上に建てられた簡易の事務所で、前身の「大学新聞広告社」を1960年に創業した。
「リクルート事件」の報道が過熱するなかで、江副氏は88年7月に会長を辞任。グループの経営再建を託すために、92年にはダイエーに持ち株を売却した。そのダイエーも経営不振からその株を手放した。故・中内功氏が神戸市に第1号店を開店したのは57年。ともに64年東京五輪を前にした高度成長時代を駆け抜けた。
東京証券取引所第1部に10月16日上場を果たしたリクルートに対して、その後イオングループ入りしたダイエーは、業績不振から回復せず、親会社によって12月に上場が廃止され、そのブランドも18年度までに店舗から順次消え去る。
両社が時を経て明暗を分けたのはなぜだろうか。リクルートの出身者たちは、若手のうちに会社を辞めて活躍してその連帯が強いことから、華僑になぞらえて「リ僑」と呼ばれる。ダイエーの出身者たちも、転出した企業で活躍している。日本の企業社会に貢献しているという点において、両社は遜色のない人材が集まっていた。
自主再建にかける強い意思のある後継者がいたかどうかが、両社の岐路になったのではなかったか。それは、創業の遺伝子を残そうという意思といいかえてもいいだろう。
公募価格を上回る株価を付けて、上場を果たしたリクルート社長の峰岸真澄氏は記者会見のなかで、自社の強みをたずねられて「企業文化」と即答した。自社の歴史に対する敬意と自信にあふれている。
現代史を顧みるには、この時代を生きた人々の隠れた証言や資料が出そろうまでに時間を要するので、性急な判断は避けなければならないといわれる。
ダイエーが04年に政府の産業再生機構に支援を仰いだ経緯が、同機構の専務COOだった冨山和彦氏の証言報道によって明らかになってきた。小泉純一郎内閣によって、ダイエーは自主再建路線を断念させられたという。官は強し、民は弱し。再生機構が起用した経営トップは再建に失敗した。
持ち株を手放す直前にインタビューした江副氏は、リクルート事件の公判中にもかかわらず笑顔を絶やさなかった。創業以来の初めて減収となり、グループ企業の借り入れの返済が懸念されていた。自らの著作である「リクルート事件・江副浩正の真実」によれば、後継者たちが自主再建してくれることを確信していた。
リクルートの「カモメ」とダイエーの「D」の1代前のシンボルマークはともに、64年五輪のポスターを手掛けた亀倉雄策氏の作品である。ふたりの創業者が歴史の評価にさらさるのはこれからなのだろう。