NHKの日本版翻案ドラマは息をもつかせぬセリフの連続
To say goodbye is to die a little.
レイモンド・チャンドラーの私立探偵である、フィリップ・マーロウシリーズの「The Long Goodbye」のなかで使われる名セリフをいったい、どう訳すのか、と誰彼となく尋ねられた――村上春樹氏は約50年ぶりの新訳となったあとがき(2008年、早川書房・軽装版)のなかでそう述べている。
NHK土曜ドラマ「ロング・グッパイ」は、キャッチコピーに村上氏の翻訳に敬意を表して、「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」を掲げている。
ただし、ドラマは村上氏の新訳を忠実にドラマ化したものではない。脚本家の渡辺あやは、旧訳の清水俊二氏から幾度も読んで映像化を夢見ていた。
日本版の翻案ドラマといえる本作品は、時代は終戦直後のまま、舞台をロス・アンジェスから東京に移した。
私立探偵の増沢磐二(浅野忠信)がフィリップ・マーロウである。彼に絡み合う人物たちは、いずれも原作に登場する。ドラマのあらすじもまた、そうである。
チャンドラーが描くフィリップ・マーロウの世界に、映像とそぎ落としたセリフの数々で挑戦している。
新聞社や雑誌社、さらには放送が始まったばかりのテレビ局まで経営する、大富豪の原田平蔵(柄本明)の次女が殺される。容疑者は娘婿の原田保(綾野剛)である。
私立探偵の増沢はふとしたきっかけで、原田と知り合い、バーで飲む友人となる。マーロウが飲むカクテルと同じジンベースの「ギムレット」である。
殺人事件の直後に、増沢のもとに血まみれとなってやってきた原田が台湾に逃亡する手助けもする。
逃亡の幇助の疑いで警察に事情聴取された増沢だったが、口を割らなかった。不可思議なことに突然、自由の身になる。
日常に戻った増沢は、原田平蔵の次女の殺人事件というスキャンダルがほとんどメディアに報じられないばかりか、台湾に渡った原田保が自殺したことを知る。
さらに奇妙な依頼が飛び込む。流行作家の上井戸譲治(古田新太)の妻である亜以子(小雪)からのものである。失踪した夫を探して出して欲しいというのである。増沢はアルコール依存症の治療を闇医者から受けていた上井戸を見つけ出す。
5回連続シリーズのドラマは第3回「妹の愛人」(5月3日)に至って、終幕に向かってドラマの展開のテンポを速めていくようである。原作の終盤が二転三転しながら、殺人事件の真実に迫るように。
増沢がギムレットを飲んでいるバーの止まり木の隣に、黒いドレスの女がすわる。大富豪の原田家の長女で医師に嫁いでいる、高村世志乃(冨永愛)である。
世志乃 「いい店ね、よく来るの?」
増沢 「よく来ると知っているからあなたがここにいる」
世乃 「どうして(原田保に)肩入れするのかしら?」
増沢 「誠実な男だった。私より普通の人間だった。そういう人間に不誠実ではいられない」
作家上井戸家の豪邸に、舞台は移る。増沢は上井戸に電話で呼び出される。文学賞をした
パーティーの準備が静かに進められている。
上井戸は増沢に謎のような言葉を投げかける。
「この事件を書く。書ければ俺は死んでもいいと思っている」
上井戸が妻の亜以子に読ませたくない草稿があるので、増沢に書斎から取ってくるよう
に頼む。
(1発の銃声が響く)
増沢が駆けつけると、上井戸と亜以子が銃を奪い合っている。
銃をつかんだ上井戸が叫ぶ。
「亜以子が俺を殺そうとしたんだ」
(泣き崩れた亜以子が自室に戻る)
亜以子の部屋のドアからなかをうかがった増沢が、部屋に引き込まれて、亜以子が口づけ
をする。純白のローブが背中からするりと落ちて、何も身に着けていないことがわかる。
謎に満ちた亜以子の行動は、原作のなかでも作家の妻によってマーロウを幻惑する。読者
がため息をつきそうになる魅惑のシーンである。
亜以子 「信じていたわ。あなたは必ず帰ってくるって」
(ドアをたたく音)
増沢は部屋をでる。亜以子のいう「あなた」とは誰なのか。
上井戸家を乗用車で去る増沢は、「わからん」といった瞬間に、車はスリップして車道か
ら草むらに突っ込むようにして止まる。
<敵とは戦うべきとは限らない。勝ち目のない敵であればなおさらのこと>
ナレーションもまた、セリフにも劣らず、そぎ落とされた無駄のない言葉である。
<小鳥が現れた>
いつものバーである。殺された妹の姉である。
世志乃 「いつも遅いの?」
増沢 「遅かったり、早かったり、そういう仕事ですから」
<小鳥は不穏な歌をうたい始めた>
大富豪の父・原田平蔵に会えというのであった。
村上春樹氏は冒頭に紹介した新訳のあとがきのなかで、次のように述べている。
「そのときの気分で翻訳を読んだり、原文を読んだりしてきた。初めから終わりまで通読
することもあれば、適当なページを開いてその部分だけ拾い読みすることもあった。一枚の
大きな油絵を遠くから眺めたり、近くによって細部を眺めたりするみたいに」
チャンドラーの世界を映像化した本シリーズもまたそのように、いつからでも、どこから
でも楽しめる。