宵闇に包まれた東京湾を望んで、スカイツリーの点滅が遠くに、間近にはライトアップされた東京タワーが。森ビルの六本木ヒルズの展望フロアから眺めると、皇居に向かって放射状に走る広い幅員の道と、それらをつなぐ環状の道が、光の筋となる。暗く浮かび上がるのは、公園などの緑地である。
人々の生活する住宅地が、働く場である都心から遠ざかって光の海となった。こうした職住分離型の都市に対して、職住隣接型の「垂直の庭園都市」を提唱したのが、昨年3月に亡くなった森ビル社長の森稔氏だった。港区内で大規模な地域を地権者たちと長い年月をかけて「共同建築」する手法によって、緑地を広く取り入れたアークヒルズと六本木ヒルズを造った。
森ビルは終戦後に、稔氏と父親で横浜市立大学商学部教授であった故泰吉郎氏が設立した。森家はもともと、港区内で米穀商のかたわら貸家業を営んでいた。
森親子のふたつのヒルズに至る人生と、首都の都市計画の歴史は織りなされて、震災地の復興にも役立つ街づくりの道筋を照らし出す。
大正12(1923)年9月の関東大震災は、森家の実家とその家作のすべてを灰にした。泰吉郎氏は自伝のなかで、復興院総裁の後藤新平が手掛けた「帝都復興計画」の区画整理事業を評価する。土地の所有者に対して、道路などの公共用に一部を提供させた。家作が立っていた土地は借地が多く、焼失によってその権利も失ったが地権者を説得して回った。
戦後の森ビルの草創期に虎ノ門地区に次々に建設した賃貸ビルが、自社の土地の周辺の地権者を稔氏が説得して「共同建築」方式を取り入れた原点が、そこにはある。
首都の都市計画の権威である越澤明博士は今回の大震災後、「後藤新平―大震災と帝都復興」によって、復興計画が大きな成果を上げたことを明らかにして洛陽の紙価を高めた。
復興事業によって、震災で焼失した面積の約9割の約3119㌶が区画整理された。放射状・環状の道の新設や拡張、公園の整備もその成果である。
戦後の都市の戦災復興計画は、首長の意欲の有無で大きな差異を生む。首都は弥縫策に終わった。昭和39(1964)年の東京五輪に向けたインフラ整備は、帝都復興計画の遺産を食いつぶした。シンボルロードとして拡幅した美しい道に、高速道路が覆いかぶさった。
ふたつのヒルズが立つ赤坂・六本木地区は、関東大震災と戦災で焼け残った民家が多かった。森ビルはアークに20年、六本木に17年の年月を費やした。地権者が前者で2割、後者では8割がそれぞれのヒルズに住み続けている。
帝都復興計画以来、実は都市計画が不在だった首都において、港区という地域のなかで、地元で生まれた企業とその経営者が住民を説得しながら、街づくりを進めてきた。
行政にかかわる人々にとってもやりがいがある仕事ではないか、と稔氏は自著のなかで述べている。震災地復興に取り組んでいる人々に対する遺言とも読める。
六本木ヒルズは4月25日に開業10周年を迎える。