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震災地が掘り起こす新たな歴史の物語

2013年3月19日

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   石巻の名勝地である、日和山からは太平洋に向かって海辺の町が見える。振り返ると、北上川の河口から上流沿いに扇を大きく開いたように街並みが広がる。

  日本海側が吹雪に見舞われた3月初め、石巻を訪ねた。震災後は半年ぶりである。この地方特有の春先の嵐のような突風が吹きすさぶ。瓦礫の撤去が進んで、半年前の埃っぽさはない。東洋一の水産加工団地を誇った魚市場周辺には、工場が再建されつつある。

  少年時代から青春を仙台で過ごした私が、友人たちに訪れることを薦める場所がふたつある。北上川の河口から仙台の南の閖上(ゆりあげ)浜まで、太平洋と並行するように走る、日本最長の人口運河である「貞山(ていざん)運河」。伊達政宗が掘削を命じた。16世紀から明治17(1884)年まで400年にわたる歳月をかけて掘り進められた。総延長は49㎞に及ぶ。

   もうひとつが、仙台市博物館の支倉(はせくら)ルーム。ここには、国宝の「慶長遣欧使節資料」がある。1613年10月28日、政宗の命により、藩士の支倉常長が石巻に近い月ノ浦を帆船で出航し、メキシコのアカプルコを経て、スペインのバルセロナなどを通ってローマに至った。その間にスペイン王やローマ教皇に拝謁し、洗礼を受けた。現地で描かせた自身の肖像画やパウロ5世の肖像画、自らのローマ市公民権証などが展示されている。

   政宗が使節を送った意図には諸説がある。常長研究の権威で「和辻哲郎文化賞」の受賞者の大泉光一博士によれば、スペインとローマ教皇と結ぶことによって、日本国内のキリシタン勢力を糾合して、徳川幕府を打倒するための密使だったという。

   震災地の故郷はいま、新たな歴史の物語を掘り起こしつつある。巨大津波が去った後、運河が恐ろしい速度の引き波を防いだということがわかる。政宗が掘削を命じた直前、マグニチュード8.5以上と推定される「慶長大地震」によって巨大津波が打ち寄せ、仙台藩内で約5000人が犠牲になった。運河建設にかけた政宗の意図は防潮にあった。

   今回の震災によって、貞山運河も被害を受けた。宮城県が中心となって修復して、観光資源にしようという計画が策定されようとしている。

   そして、常長の新しい物語である。月ノ浦を出帆してから400年に当たるのを記念して、日本とスペインは2013年6月から翌年の7月にかけて、交流年のイベントを繰り広げる。日本側の名誉総裁は皇太子殿下がお務めになる。

   石巻市渡波の海辺にある宮城県慶長使節船ミュージアムに、常長が乗船した「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船がある。巨大津波に襲われて、原型をとどめながらもマストの上部などが破損したため復旧が急がれている。

   東日本大震災は869年の貞観地震以来、1000年に一度の巨大地震である。戦後の日本経済の繁栄の成果は、一瞬にして震災地から消えた。記憶の時間軸を過去にさかのぼらせて、震災地は足元の歴史をあらためて見つめている。そこには、心の支えになるばかりではなく、復興の大きな梃となる観光資源が埋もれていた。

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