誉れもなく
訾(そしり)もなく 荘子『山木篇』
(誉れにも、謗りにも気にかけず、 臨機応変にしてとらわれない)
組織に迫る危機に対して、広報パーソンはその瞬間、瞬間の判断を迫られる。
新聞記者から転じて一年半余り、二〇〇四年一月のこと。ソフトバンクの子会社のソフトバンクBBが運営しているブロードバンドサービスの顧客名簿が盗まれ、恐喝を受ける。「個人情報流出事件」である。
事件の端緒は別の子会社の役員に犯人グループのひとりが接触してきて、二百四十二人分の名簿を示した。氏名と住所、電話番号、申込日、メールアドレスの5点が記載されており、信用情報は含まれていなかった。この男は大量の名簿を持っていることを匂わせて見返りを要求した。
トップを含めた緊急の会議が即刻開かれ、トップによって、三つの方針が示された。「悪に屈しない」「嘘をつかない」「顧客の二次被害を防ぐ」である。その直後、警察に被害届を出して、捜査陣との連携のもとに、犯人グループとの攻防が始まる。
彼らから約四百万人の顧客名簿が入っているという記録媒体を受け取り、そのまま警察に引き渡して分析を依頼する。犯人グループ三人を逮捕して、捜査当局が事件の輪郭をつかんだ一カ月後、読売新聞がスクープした。
そして、わたしが記者会見に臨むことになる。
記者会見はどのようなものであったか。危機管理のコンサルタントである、田中辰巳の「そんな謝罪では会社が危ない」(文春文庫)を引く。ちなみに、わたしの会見は「こんなお詫びは許されない」の章立てのなかで、「役者不足の謝罪」に分類されている。
「突如として読売新聞にスクープされてしまった。この段階では、まだ犯人が逮捕されていない(逮捕は五月三十日)。……寝耳に水の話だったのだろう。……心のどこかで記者団に対して親近感も覚えていたのか。それは、少し前まで同じ立場にいた仲間であり、対等な関係にあるという意識にもつながっていたのだろう」
わたしの心境を断定するに足る、田中のインタビューはない。犯人逮捕について誤認もある。
読売新聞の二〇〇四年二月二四日付夕刊はいう。
「逮捕されたのは、北海道函館市、会社役員湯浅輝昭容疑者(六一)。……(ソフトバンク)グループ側は、湯浅容疑者と接触した二日後、ヤフーBB加入者二百四十二人分の情報が社外に流出していることを公表していた」
わたしがこだわったのは上場企業の適時開示の原則である。読売新聞の報道は冷静にその点を押さえている。この二年余り後、KDDIが同様の事件に襲われたとき、このような適時開示がなかったため、報道陣が追及したと聞く。
田中の記述の誤りは責められない。経済事件記者として遭遇した数々の犯罪と比べても、複雑怪奇なこと例をみない。
読者に乞うて、次号以降もまた、事件の真相に迫りたい。 (敬称略)
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