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黒柳徹子役の満島ひかりが、豊かな感性を表現

テレビのいまに元気はあるか

WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本 寄稿    http://wedge.ismedia.jp/category/tv

 日本のテレビ放送が始まったのは昭和28(1953年)2月、それから63年余りの時が経つ。テレビの草創期からいまも「徹子の部屋」などで現役を続ける、黒柳徹子を主人公とした、NHK「トットテレビ」(第1回4月30日)が始まった。

 NHK東京放送劇団の5期生で、同時にテレビの放送開始に向けて俳優の養成の第1期生にあたる、黒柳役は満島ひかりである。トットは黒柳の幼少からの愛称である。自分の名前である徹子をうまく発音できずに「トット」といったことからきている。

 テレビの草創期から、発展をとげるテレビをめぐる群像劇は、黒柳の著作である「トットチャンネル」と「トットひとり」を原作として、毎回30分枠のテンポのよい展開のドラマに仕上がっている。

 草創期のテレビのなんと元気があったことか。「電気紙芝居」と悪口をいわれた、新しいメディアを切り開いた人々の多彩な顔ぶれに驚かされる。第1回は黒柳が放送劇団に入って、悪戦苦闘する様子と、これから繰り広げられるドラマの主要な人物が紹介される。俳優の渥美清(中村獅童)や森繁久彌(吉田鋼太郎)、劇作家の飯沢匡(大森南朋)、脚本家の向田邦子(ミムラ)……。

 トット(満島ひかり)の父の守綱(吉田栄作)はNHK交響楽団のコンサートマスターを務めたバイオリニスト、母の朝(安田成美)は声楽でのちにエッセイストになる。戦時中の尋常小学校を1年で退学処分になったトットは、トモエ学園(東京・自由が丘)で、個性を尊重される教育に救われる。戦後、音楽学校に入学してオペラ歌手を目指すが夢は果たせない。

 彼女が目指すようになるのは、「母親になって、子どもに絵本を読めるようになりたい」ことであった。それにはどうすればよいのか。

 「テレビジョン」の放送に向けて、NHK東京放送劇団が新たに俳優の養成にあたることを決めて、その候補の若干名を募集していることを、トットは新聞記事で知る。

 第1次試験の会場になった、当時は東京・内幸町にあったNHKに行くと応募者が6000人以上であることを知る。トットはこの中から女性9人、男性8人の計17人のひとりに選ばれたのである。

 養成期間に入って、トットは個性が出てうまくいかない。ラジオドラマの背景となる「ワイガヤ」つまり通行人の声を複数の養成の同僚とやるシーン。戦地から戻った兵隊が路傍で倒れる。トットは大きな声で「大丈夫ですか。死んでないですか」と。

「ワイガヤ」は目立ってはいけない。しかし、トットは考える。人が倒れたら大声で心配するのではないかと。

 テレビの音楽番組で、歌手の笠置シズ子がヒット曲「買い物ブギ」を歌っている後ろを通行人として通るシーン。トットは笠置をじろじろと眺めながら通る。ディレクターにその演技を注意されると、「だって、道で歌っているひとがいたら、どうしてかとみるんじゃないですか」。ディレクターに「今日は帰ろうね」と、スタジオの外に押し出される。

 廊下で待っていたのは、養成の先生である大岡龍男(武田鉄矢)である。彼はトットにいう。

「トットさま。どうしてあなたが受かったかわかりますか。筆記試験の成績は悪かったし。それはね、テレビジョンという全く新しい分野で、演技もなにも知らない無色透明なまっさらなひとが一人ぐらいいてもいいかと思ったのです」

 トットにチャンスがめぐってくる。ラジオドラマである。インドの王様から中国の皇帝に献上された三匹の高貴な子ザルの物語。作者の飯沢匡(大森南朋)は、それまで子役にやらせていた声を初めて、大人の女性にやらせようと考えた。東京放送劇団の団員だけではなく、外の劇団の団員も参加する、おそらく日本で初めてのオーディションをおこなった。

 三匹のサルの末弟である、トン坊役をトットは割り振られた。兄役のヤン坊とニン坊を繰り返し交代させながら、トットはトン坊のセリフを繰り返させられる。「ほかの役もやりたい!」というトット。オーディションが終了して、「またダメか」とつぶやく。

 しかし、トットに歩み寄った飯沢は、トン坊は彼女にやってもらうというのだった。トットは飯沢に歩み寄る。「私は日本語が変だし、話し方も変だといわれます。日本語も話し方も直しますから」という彼女に、飯沢はいう。

 「直すことはありません。あなたのそのままがいいんです」

 トットの目に涙がにじむ。

ラストは、賑やかに「買い物ブギ」と登場人物たちの乱舞である。

 第1回の重要な役である、養成の先生の大岡龍男は、俳人であり写生文の名文家としても知られ、私小説作家でもあった。脚本家の飯沢匡は、朝日新聞出身で、講和条約締結によって、日本が占領から独立した後を待って、原爆の被災地の悲惨な状況を写真誌「アサヒグラフ」に特集した編集長としても知られる。

 原作の黒柳の著作は、テレビばかりか芸能史を築き、亡くなった人々に対するレクイエム(鎮魂歌)でもある。ドラマはそれらの人々を生き生きとよみがえらせる。

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「幸福の経済学」が照らし出す不幸

フジサンケイビジネスアイ 高論卓説 寄稿。

分厚い週刊誌大の封筒が自宅に届いた。独立する前に働いていた、ベンチャー企業を含むITやソフトウェアの企業が加盟している「厚生年金基金」が解散する。厚生年金基金は企業年金を退職者に支給する。運用の資金は国の厚生年金を代行して運用する部分と、企業が拠出する部分からなっている。国の厚生年金の代行部分を返上した後に残った財産をどのようにするか、という加入者に対する確認書類である。

 私が加入していた厚生年基金の予定利回りは5.5%だった。超低金利時代に利回りを確保するのが困難になり、政府は平成26年4月の厚生年金法の改正に基づいて、基金の解散がしやすくした。選択肢は一時金としてもらうか、第1年金と名付ける残った財産を原資とする企業年金に移行するかである。いずれも、従来の年金よりも支給額は低い。

 厚生年金基金の数は、同年度末には444と10年前から243も減っている。企業年金連合会によると、企業年金の支給額(代行型)の平均は平成26年度末で約57万円。基金の解散はシニアにとって痛手である。

 経済学者の野口悠紀雄氏は、「金融政策の死」のなかで、「年金制度は長期にわたって存続する制度なので、金利と深い関係を持っている。年金額は金利の変化によって大きな影響を受けるし、金利について誤解が、制度に大きなひずみを与える」と、指摘する。「積み立て不足の原因は運用の失敗と言われることが多い。確かにそれも無視できないが、基本は、高すぎる利回り想定に基づく高すぎる給付水準である」。

 国民年金と厚生年金もまた「設計ミス」と、野口氏は断じる。昭和40年の予定利率は5.5%で、給与に対する厚生年金の平準保険料は6.9%、国民年金の平準保険料は403円だった。「このような低い保険料では制度を維持できないことがわかってきた。そこで厚生省は、制度改定ごとに保険料を引き上げ、給付額を切り下げてきた」。野口氏のいう「過去の誤りの訂正過程」は続き、シニアの生活設計を狂わせる。

 「幸福の経済学」の先駆者である、キャロル・グラハム氏らの研究によると、先進国ではおおむね、年代別の幸福度が40代半ばまでは低下して、その後は60歳以上にかけて幸福度が再びましていく「U字型」の傾向をたどる。ところが、日本では加齢とともに幸福度の下降に歯止めがかからない。日本の研究者たちはその原因の究明に窮しているようにみえる。一国の1人当たりのGDPが一定以上になると、その国の平均的な幸福の水準は伸びなくなる。これを「幸福のパラドックス」を経験した日本が、新たな課題に直面している。

 グラハム氏の著作「人々を豊かにするものは何か」を援用するならば、「人々は不確実性に適応するのが難しい」。超低金利時代はまさしくそれだ。不確実性は年金にとどまらず、生命保険の保険料の引き上げや預貯金の金利の引き下げなどにも及んできた。「幸福の経済学」は、英国などでは厚生政策を立案する基盤となっている。

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人類が未経験の惨事に現場の事実を積み重ねる

吉田昌郎所長の未公開調書も

WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本 寄稿    http://wedge.ismedia.jp/category/tv

 東日本大震災から5年目の彼岸も過ぎる。人類が未経験だったメルトダウンの連鎖という惨事のなかで、現場はどのように判断して動いたのか。

  NHKスペシャル「メルトダウン 危機の88時間」(3月13日)は、福島第1原子力発電所の事故について、その責任を追及することを急がず、現場の事実を積み上げてみせた。亡き吉田昌郎所長が国会事故調査委員会の聞き取りに答えた、未公開の証言に加えて、関係者約500人の証言が裏付けになっている。当時の現場の状況を再現するドラマが、事実をより理解しやすくいる。

  大震災と巨大津波から88時間目とは、第1号機と第3号機がメルトダウンを引き起こして、緊急冷却装置が稼働してかろうじてメルトダウンが免れていた第2号原発が原子炉格納容器の爆発の危機に陥った瞬間だった。

  格納容器が爆発すれば、大量の放射能汚染物質が拡散して、周囲に拡散するばかりか、第1機に立ち入りができなくなり、原発事故の収拾は困難になる。さらに、放射能汚染物質は隣の福島第2原子力発電所にも流れ込み、この発電所の地震と津波による被害対策もできなくなる。

  さらには、東電関係者の証言として、「東日本に人が住めなくなる」と思った瞬間であった。「日本がダメになる。そのことを死ぬまで忘れない」と別の証言者は語る。

  第2号機の格納庫の爆発を避ける方法は、ふたつあった。ひとつは、第1、3号機で行ったように格納庫の圧力を下げるために、庫内の空気をいったん水に通して放射能汚染物質を少なくしたうえで放出する「ベント」である。もうひとつは、SR弁と呼ばれる弁を開放して圧力を下げるとともに、水を注水する方法である。

  注水については、第3号機で、マニュアルにはない消防車で海水を原子炉に送り込んでいた。ただ、この際に推定しているように原子炉の水位が上がらなかった。吉田所長には消防車による注水の効果に疑問が生じていた。のちに、わかったことは、消防車による注水はパイプの水路をつなぎながら、一直線にすべての流量が流れ込まず、4カ所で漏れていたのだった。この結果として注水した水量の半分しか原子炉に到達していなかった。

  SR弁で圧力を下げて、注水に失敗すれば、原子炉は「空焚き」状態となって原子炉格納庫の爆発の危険は高まる。

  最大の危機に陥った第2号機に対して、吉田所長をはじめ現場は「ベント」を選択しようとした。

  しかし、3月14日午後4時15分、官邸と当時の原子力安全委員会の班目春樹委員長は、SR弁によって圧力を下げたうえで注水するように指示した。

  吉田所長の未公開証言は「最後はしかたなかったけど、やむをえなかった」と述べている。

  SR弁を開ける作業によって、原子炉内の圧力は下がった。しかし、消防車の水が入らなかった。消防車の燃料が切れて、注水が停止していたのだった。第1、3号原発の水素爆発などによって、構内はがれきが散乱して、消防車の点検ができなかったのである。

  同日午後9時すぎ、第2号機がメルトダウンする。ベントもできず、格納庫の圧力は高まる。

  吉田所長は「「討ち死になる。第2(原子力発電所)のほうも作業ができなる。あとは神に祈るだけだ」と考える。

  東京電力の本店が考えていたのは、「ドライウェル・ベント」だった。放射能汚染物質を水に通さずにそのまま外に放出する、禁じ手ともいえる方法である。

  本店 「ドライウェル・ベントをやれ!責任はこっちでとる」

 吉田所長 「やってますから。ディスターブ(邪魔)しないでください!」

  現場からは「ドライウェルベンドできません!」という声が。作業区域内に人が入れば、15分以内に死亡する放射線量に達していたのだった。

  3月15日6時14分、格納容器の圧力がゼロとなった。つまり容器が壊れたと考えられた。同7時過ぎ、現地本部の入っていた建物が大きく揺れる。吉田所長は所員たちに放射線量が少ない地域への退避を命じる。

  結果として、第2号機の原子炉格納容器は爆発を免れた。建物の揺れは第4号機の水素爆発によると推測されている。同機は運転休止中だったが、第3号機から漏れた水素が建屋内に充満したらしい。

  第2号機の格納容器は上部の継ぎ目付近がひび割れたようになって、それによって内部の気体が外部に排出されて圧力が下がったと考えられている。ただし、その部分を直接確認するには至っていない。第2号機はその後1週間にわたって大量の放射能汚染物質を放出した。

  吉田所長は「10人くらい昔から知っているやつ、こいつらだったら死んでくれるかなと思った。すさまじい状態だった。天の助けがないと、もっとひどいことになった」と証言している。

  現場の認識と判断が生かされないままに、原発事故は危機一髪の状態にまで進行した。

  「本店と現場の認識の差ができている。一番遠いのは官邸ですね」と、吉田証言が語っているのは、当時の菅直人首相の現地視察である。

  今回のNHKスペシャルは過去のシリーズの成果も盛り込みながら、その継続の必要性を物語っている。それなしには、教訓は生まれない。

 

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ELNEOS 「ほまれもなく そしりもなく」 田部康喜 広報マンの攻防戦

 「志を共有するすべての人々に広く結集を呼びかける。国民の信頼に支えられ、国民とともに進む。真の意味での国民政党となることを誓い、ここに民進党の結党を宣言する」

民進党の結党大会が開かれたのは三月二七日。結党宣言の冒頭では、「自由」「共生」「未来への責任」を党の旗として掲げる。

 本稿執筆時点の四月中旬、郊外の空き地を囲む塀に貼られた、岡田克也氏がほほえむポスターは「民主党」のままである。

 党のロゴマークが四月一四日締め切りで公募されている。これが決定されてから今夏の参議院議員選挙向けに新たなポスターが作られるのだろう。

 しかし、いまにも吹き飛ばされそうな古いポスターは、新党のイメージを損ないかねない。

 このシリーズでは、東京工業大学マネジメントセンター准教授の西田亮介氏の著作「メディアと自民党」をてがかりとして、政党の広報戦略について考えてきた。

 小泉純一郎内閣が二〇〇五年9九月に仕掛けた「郵政選挙」をはじめとして、自民党が広告代理店やPR会社などのノウハウを取り込んで、いまや独自の広報戦略を練り上げるまでに成長してきたことはすでに振り返った。

 これに対して、旧民主党は「郵政選挙」に先立つ二〇〇三年一一月の衆院選において、代理店とPR会社と協力体制を作った。それも、「郵政選挙」の敗北によって、PR会社に責任を取らせる形で契約を解除して、旧民主党は本格的に、独自の広報戦略を練り上げる機会を失った。

 民進党はこうした過去の歴史に学んで、自民党の広報戦略に逆襲することができるだろうか。

 企業や団体など組織の広報パーソンが戦略を練り上げるためには、トップの理解が欠かせない。それは組織のどの部門でも同じことである。

 旧民主党に外部の広報戦略の人材を導入した当時の代表は、民進党の初代代表となった岡田克也氏である。自民党が広報の戦略性に軸足を移したのは、小泉純一郎首相である。安倍晋三首相も小泉時代から、広報の戦略立案にかかわっていた。

 岡田代表はどうか。「民主党政権とは何だったのか」(岩波書店、二〇一四年)のなかで、外務相時代に直面した、東アジア共同体構想について次のように次のように語っている。鳩山由紀夫首相が唱えたこの構想に対して、米国が神経質な対応をしてきたときのことである。

 「外相時代に海外のメディアのインタビューを四〇回やっているのですね。(共同体構想から米国を)排除するものではないと言うと、彼らはほっとするのです」

 岡田代表がメディアとのリレーションに寛容であることがうかがえる。

 民進党のこれからの広報戦略の課題は、いったい何を広報によって、伝えていくのかという点である。前掲の「民主党政権とは」のなかで、編者の政治学者山口二郎氏は旧民主党が政権を失った要因として、「綱領とマニュフェストをつなぐ議論が民主党にはない」と指摘している。民進党は参院選挙までにそれを成し成し遂げられるだろうか。 

          (この項了)

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ELNEOS 3月号  「ほまれもなく そしりもなく」 田部康喜 広報マンの攻防戦

 自由民主党は人材の発掘を目的として、所属議員の事務所で研修するインターンシップに地方の学生も参加できるように、受け入れ人員を現在の三〇人から一〇〇人に増やすとともに、地方の事務所でも受け入れる。

さらに、現在四〇都道府県で開いている政治塾を空白だった福岡や静岡でも開校して、全国に広げる。

 いずれも、日本経済新聞の二月一二日付朝刊のベタ記事である。

 メディアの政治部は政局を追うことを取材の第一義としている。政党の在り方や方向性は、こうしたベタ記事のなかに現れる。

 自民党は明らかに「近代化」を図っている。各選挙区の候補者が、その選挙区の党員による投票と幹部による面接によって決まるようになれば、英国型の選挙活動に近づく。

 このシリーズは、工業大学マネジメントセンターの准教授である、西田亮介氏の最新刊「メディアと自民党」(角川新書)を補助線として、自民党の広報戦略の高度化と、それに対していまだに対応しきれていないメディアの問題について考えてきた。

広報戦略の高度化は必然的に、政党自体の在り方を変えていく。冒頭に紹介した、自民党の人材開拓の幅の拡大は決して、そうした広報戦略と無関係ではない。

 「政治がメディアとの関係性に戦略性を持ちこみ始める」時期について、西田氏は二〇〇〇年代初頭である、と指摘している。

 自民党も民主党もともに、企業のマーケティングやPR、PA(パブリックアフェアーズ、公共的課題に関する広報)の技法を取り入れていく、としている。「この過程において、政党に加えて、『プロ』の存在感が増していった。電通をはじめとする広告代理店やPR会社である」と。

 いくつかのPR会社や選挙の「プロ」たちの名前が登場する。 ここでは、西田氏がインタビューをしたにも関わらず、推敲の過程で削除したであろうと推測する、エピソードを関係者の話を総合して紹介したい。

 民主党が衆院選において一七七議席を獲得して、その後の政権交代に道筋をつけた。広報戦略を担ったのは、広告代理店の博報堂と、PR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン代表の田中慎一氏である。

 田中氏は、ホンダの広報マンからセガを経て、外資系PR会社の日本代表となった。日米自動車交渉において、米国政府の凄まじい広報戦略を経験するとともに、米国の大統領選挙における広報戦略を学んだ。

 政策面では「マニュフェスト」選挙をはじめて掲げて戦わせ、イメージ選挙の面では当時の岡田克也代表の服装や話し方を指導もした。

 そもそも代表の周辺では、PR会社を選挙戦略の策定に加わらせることに強硬な反対を唱える者があったという。

 小泉純一郎首相による「郵政解散」の惨敗をきっかとして、田中氏らは関係を切られる。民主党は広報戦略の重要性を内部に確立することができなかった。

田中氏らに拒絶反応を示した幹部がその後、広報戦略の重要性を知るとともにロビイスト的な仕事に就いたのは余話である。

         (この項続く)

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