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梅ちゃん先生 「戦後」は遠くなりにけり 昭和生まれの女優

  「下村先生なんておかしいよ、梅ちゃん先生でいいよ」

 近所で食堂を開いている三上康子(岩崎ひろみ)がいう。

 東京・蒲田で開業したばかりの下村梅子(堀北真希)が前夜、食中毒にかかった5人の工員を救った。そのお礼に現れた同僚が、「下村先生」と呼びかけた瞬間であった。徹夜に近かったその治療の疲れから、机に突っ伏している梅子を母親の芳子(南果歩)が揺り動かす。

 「患者さんですよ、梅ちゃん先生」

  NHK朝の連続小説「梅ちゃん先生」のなかで、主演の堀北真希が初めてタイトルンの名前で呼ばれたシーンであった。第16週(7月9日~14日)「ちいさな嘘の、大きな本当」を観た。

  シリーズは、終戦直前に蒲田が空襲に遭って焼け野原になったシーンから始まる。女学校に通う梅子が、浮浪児を助けたことをきっかけとして、医学部の教授である父建造(高橋克実)に当初は反対されながらも、女医の道を目指していく。

 朝の連続小説ではおなじみの女性の成長の物語である。戦後の混乱とその後の経済成長のなかで日本人がどのように歩んできたか。これも連続小説の大きなテーマである。

 「小さな嘘の、大きな本当」は、梅子に思いを寄せる、父建造の教室に所属している研究医の松岡敏夫(高橋光臣)の揺れる気持ちが縦糸になっている。そして、隣家の部品製作所の工員の退社騒動がからみあう。本当の気持ちをなかなか率直に表現できない、青春時代に特有の甘い香りのする感情劇である。松岡役の高橋の演技が、連続ドラマを観る楽しみになる。理知的過ぎて、恋愛感情を表現する方法を知らない。青森の素封家の娘との縁談を断って、大学の研究室に戻って、梅子と再会しても、うまく気持ちをだせない。突然、梅子が胸に飛び込んできて、ぎこちなく肩を抱く。

  連続小説は、若手女優の登竜門である。平成に元号が変わる直前に生まれた堀北真希は、若手とはいえ、いまや堂々たる人気女優であり、過去のシリーズの女優とは比較にならない。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの青森から集団就職で、自動車修理工場で働く星野六子役で、古くさい言い回しではあるが「国民スター」となったといえよう。梅子と松岡を演じる堀北と高橋をみていると、大物女優が若手俳優を育てる、といった趣(おももむき)がある。ほめすぎだろうか。青年医師を演じる高橋が上手くスターである堀北を支えているといったほうがよいのかもしれない。

  梅ちゃん先生「戦後の日本人」を語る――月刊文藝春秋6月号の堀北真希の聞き書きである。国民雑誌といわれた文藝春秋の中吊り広告に、若手女優の名前が躍ったのはいつ以来のことであろうか。国民スター・堀北真希の面目躍如である。聞き書きは文藝春秋編集部によるから、女性誌や芸能誌とは一味違う彼女の実像が浮かび上がる。

  「私はギリギリ昭和生まれで、誕生日の3カ月後に平成になりました。当たり前のように、部屋にお花を飾ったり、いい香りのするキャンドルを置いてみたり、ただ楽しむためだけのモノにお金をかけることができます。それはそれですごく幸せなことです。しかし、ゼロの状況から今の豊かな暮らしに至るまでに、当時の人たちがどれほど頑張ったか。それを忘れてはいけないなと思っています」

  連続小説が、戦後にこだわってきたことの意義があらわれている。団塊の世代に次ぐ筆者にとって、戦後は遠い存在とならうとしている。物心ついたころには、高度経済成長にかけあがっていく時代であった。

  「梅ちゃん先生」は、戦後の歴史について、ニュース映画の映像をつかって、ていねいに解説している。今回の第16週は、昭和30(1955)年が舞台である。朝鮮戦争後の好景気のなかで、人手不足が、梅子の隣家の部品製作所まで及んでいるのがわかる。

 思えば、梅ちゃん先生は筆者の父母の世代の大正生まれである。梅子の父は明治生まれであろう。連続小説は、祖父母、父母、子、そして、筆者の子どもの世代に戦後を追体験させる。それは、堀北真希の世代である。戦後を生きた人々が懐かしく観るばかりではなく、それらの人々に育てられた人々が、過去を思う瞬間を経験しているのであろう。

 そして、2011年3月11日に起きた、東日本大震災と巨大津波、原発事故である。終戦直後の風景と震災後のそれは、現実ばかりではなく、心象風景もまた重なり合う。

  堀北真希は、文藝春秋の聞き書きのなかで、次のように語っている。

  「クランクインは、終戦直後の東京・蒲田の焼け野原を再現したオープンセットでした。……戦後のバラック街や闇市が再現されています。大量のがれきや、実際に木材や家具を燃やしただけでなく、廃材に墨汁を吹き付けて焦げたように演出しているのです。あまりにリアルなセットに立ったとき、真っ先に思い浮かべたのは、3・11のニュース映像でした」

  「梅ちゃん先生」が、戦後の焼け跡から立ち上がる人々を描くとき、大震災後の人々にも勇気を与えているのだろう。                   (敬称略)

 

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「もう一度君に、プロポーズ」 脇役からヒロインへ

     テレビはケ(日常)である。

     生活そのもの――送りにとって受け手にとっても。俗。聖なるものとの出会いまでの厖大(ぼうだい)なディテイル。日付のあるドラマ。

  『お前はただの現在にすぎない』(萩元晴彦・村木良彦・今野勉)――テレビ界で読み継がれるテレビ論の名著から「お前に捧げる18の言葉」のひとつを紹介する。お前とは、テレビのことである。共同著者の3人は1960年代にTBSを辞め、日本で初めてのテレビ番組制作会社であるテレビマンユニオンを設立した。1969年に刊行され、長らく絶版状態が続き、古書市場では驚くほどの高値だった。テレビ番組の制作を志す人々のバイブルともいえる。2008年に朝日文庫に入ることによって広く読まれるようになった。

  「日付のあるドラマ」とはなんとも、卓抜なテレビの定義なのだろうと思う。テレビの草創期を作った青年制作者たちの気負いも感じる。テレビはジャーナリズムでも映画でもない、と3人はいっている。

  ドラマのシリーズに曜日を冠にするようになるのは、必然であったろう。その曜日が持つ、ニュアンスがにじむ。フジテレビが切り拓いた月曜夜は、週明けのビジネスパーソンにまだエネルギーが満ちている。「日曜劇場」はいまでは遠い思い出となりそうではあるが、家族がそろう団欒に合う。疲れがにじむような週末の日常には、しっとりとした情緒が欲しいと考えるが、いかがだろうか。

  金曜ドラマ「もう一度君に、プロポーズ」――TBSの夜10時台のシリーズである。竹野内豊と和久井映見が、倦怠期を迎えようとしている夫婦役を演じている。

 バブルが崩壊したといえ、その余韻が残る1990年前後に活躍のきっかけをつかんだ、若手俳優だったふたりが、ともに不惑を超えて、主役を演じている。いまでは死語となったトレンディドラマの旗手である、フジテレビのシリーズのなかで輝いたふたりでもあった。和久井の「すてきな片想い」「ラブストリーは突然に」……、そして竹野内の「ロングバケーション」「ビーチボーイズ」……。

  「もう一度君に、プロポーズ」。竹野内演じる夫が妻の和久井に、最終回でプロポーズするエンディングを予想させるタイトルは、視聴者に対して挑戦的である。

  和久井が扮する宮本可南子は、図書館の司書である。図書館の近くの公園で、子どもたちに絵本を読み聞かせる練習をしていた可南子と、たまたま昼食をとっていた、竹野内が夫役の自動車整備工の波留は知り合い、結婚する。可南子はくも膜下出血によって倒れ、一命を取り留める。しかし、波留と出会いそして結婚した期間の記憶だけを失ってしまう。手術後にベッドで目を開いて、心配そうに見守る波留に向かって、可南子はいう。

 「どちらさまでしたっけ」と。

 いったんは自宅に戻った可南子だったが、見知らぬ男性となった波留とは暮らしがたく、実家に戻る。

  ドラマは、ふたりの感情をあや織りながら、可南子のかつての恋人と波留に思いを寄せる職場の若い女性整備工が絡む。自宅に残された可南子の日記を読みながら、波留はなぜ妻の記憶が自分に関する部分だけが欠けているか、探ろうとするがわからずに、悩みは深まる。

  「離婚しよう」

 波留は可南子に告げる。

 第6話、2012年5月25日放映のラストシーンである。友人の結婚式が終わったあと、ふたりで残った教会。ふたりもここで式を挙げた。結婚の宣誓のなかで、神父の問いに「誓います」と大きな声で参列者の笑いを誘った波留に続いて、可南子も大きな声でこたえたシーンがフラッシュバックで挿入されたあと、この回はエンディングを迎えた。

 90年代にドラマの主役を務め続けた、和久井の演技に、筆者が最近再び気づいたのは、映画の脇役としてのそれだった。大奥の男女の役割が逆転するという奇想天外な発想の「大奥 男女逆転」(2010年)では、柴咲コウ演じる徳川吉宗の側近の加納久通を。大阪国が存在し、その秘密を大阪生まれの男子が引き継ぎ、王女を守るという「プリンセス・トヨトミ」(2011年)では、総理役のお好み焼き屋の主人の妻を演じた。「ほんまに、大阪の男はしょうがないわ」と大阪弁の和久井のセリフがエンディングである。

  ドラマとは、その設定がどこか非日常的である。和久井が脇に回った2作は、それがずば抜けている。しかし、描かれているテーマは、恋であり、家族であるようなオーソドックスなものだ。「大奥」では主人公役の二宮和也演じる大奥入りした武士と、町娘の堀北真希との恋愛劇であり、「プリンセス」では、父と子のふれあいだった。

 破天荒な設定の主人公をテーマにそくして魅せるのは、脇役の現実感である。非日常のドラマの展開のなかで、観ている者の日常につなぐのが、脇役ではないかと考える。和久井の演技はそのようなものであった。

  主役級の女優から脇役に、そして、「もう一度君に」で和久井は再び主役になった。不惑を過ぎた女優をヒロインにするキャスティングは、脇役の和久井の演技力を知っていれば当然だったのだろう。                 (敬称略)

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日曜ドラマ「ATARU」 栗山千明を輝かせる中居正広

 ドラマをみるきっかけは何だろうか。主演の男優に魅かれてか、共演の女優か、その逆もある。主演と共演の魅力は分かちがたく、ふたりをみたいこともあるだろう。

  視聴率激戦区の日曜夜9時のゴールデン・タイム、TBS「ATARU」と、フジテレビ「家族のうた」はどうだろう。特異な才能で事件を推理するATARUを演じるのは、SMAPの中居正広である。オダギリジョーは「家族のうた」で、売れないロック歌手・早川正義を演じている。

  共演は、中居の相手は、警視庁刑事・蛯名舞子役の栗山千明である。オダギリジョーは、カメラマン・青田洋子役の貫地谷しほりである。

  ふたつのドラマは、春の新番組、いわゆる改編によって、2012年4月15日同時スタートした。ともに第5回となる5月13日、新聞の朝刊の芸能ニュースは、オダギリジョー主演のフジ「家族のうた」が、視聴率の不振から、第8話で打ち切りになる、と報じている。前回の平均視聴率は3.1%であった、と。

  オダギリジョーは筆者が注目している俳優のひとりである。西川美和監督の「ゆれる」(2006年)で、写真家の早川猛を演じた。恋人の川端智恵子役は真木よう子、兄の稔役は香川照之である。真木との男女の心理的な駆け引きにおけるオダギリの演技は、智恵子の死をめぐる裁判劇の伏線となる。

  週明けの仕事が頭の片隅をかすめる日曜日の夜、女優・栗山千明に魅かれて、筆者は「ATARU」を春の改変では選んだ。「ATARU」は、いわゆる事件もので1話ごとに殺人事件の謎解きがあるシリーズである。 5月6日放映の第4回を振り返る。中居は「チョコザイ」と名乗る。特別な領域に関して才能を持っているサヴァン症候群の男の設定である。栗山との会話は成立していない。

  殺人事件ではなく事故として取り扱われる「捨て山」といわれる事件を結果として、栗山と解決する。短い言葉を発して、捜査の方向性を決める。

  この回は、単発飛行機の操縦士が離陸しないでフェンスに激突、死亡して見つかった事件である。チョコザイは、もう一機の単発機が事故にあった飛行機の上をかすめるように急接近したのが原因で、死亡した飛行士が激突したことを明らかにし、殺人事件の解決へと導く。  犯人は、操縦士の指導教官であったかつての恋人であった。死んだ男がこころがわりして、別の女性と結婚することを恨んだ犯行だった。

  チョコザイは、事件の捜査の「開始」と「終了」を短く英語でつぶやく。事件が解決すると瞬間的に眠りに入り、涙がほほを伝う。

  中居のチョコザイには、ほとんどセリフらしいセリフはない。刑事・蛯名役の栗山は、事件現場に行ったり、聞き込みに行ったりする、その行動によって舞台回しを演じるとともに、チョコザイに好意を寄せる感情を表現する。

  栗山の演技力に筆者が魅入られたのは、NHK連続ドラマ「ハゲタカ」の放送記者役であった。大森南朋が演じる元銀行員のファンドの経営者と、経済事件をジャーナリストとして切り込む。栗山の人生と大森の数奇な人生が絡み合うのが、ドラマの魅力だった。

  主演男優と女優が、そのドラマを成功に導く方程式があるとするならば、筆者は男優が女優に光りをあてるような演技がいいのではないか、と考える。あるいは、そうした設定のドラマは観るものをゆったりとした気持ちにさせて、くつろがせるのではないだろうか。

  オードリー・ヘップバーンのデビュー映画「ローマの休日」で、グレゴリー・ペックが演じた新聞記者役は当初、ケリー・グラントが予定された。脚本を読んだグラントは、物語の主人公が自分の役ではなく、オードリーが演じた王女であることを理由にして断ったという。ペックは即座に引き受けた。

  さらに、映画のタイトルのトップに彼女の名前を出すように製作会社にいったのである。「この映画で彼女はオスカーを受賞する」と予言して。

   オダギリの「家族のうた」はこころ動かされながらも、打ち切りの報道まで、観ることはなかった。5月13日の第5回を観た。相手役の貫地谷しほりもまた、感情の起伏を生き生きと表現できる美貌の若手女優である。NHKの朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で、落語家を目指す主人公を演じて、豊かな才能をみせて観るものを驚かせた。

  主人公のオダギリの演技が直線的に正面に出て、貫地谷の魅力を光り輝かせていない。打ち切りが決まったのは予定されていた11回の途中であるから、即断はできない。ドラマは終盤にかけて、ふたりの演技がハーモニーを奏でたのかもしれない。オダギリはもともと、女優を輝かせる男優である。真木よう子を本格派女優の道の入り口に導いたのは「ゆれる」の共演であった。沢尻エリカを一躍スターにした映画「パッチギ!」でも、酒店の若旦那として重要な役回りを演じている。

  「家族のうた」の打ち切りは惜しい。オダギリと貫地谷のために。(敬称略)

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「Wの悲劇」武井咲は、薬師丸ひろ子になれるか  リメークドラマはスターへのオマージュ

 青春時代を思い返すとき、時代の女優は誰だったろうか。

筆者は団塊の世代に続く「谷間の世代」である。戦後の出生率は1950年代末に最低を記録して、その後緩やかな増加に転じる。ポスト団塊の世代の範囲をどこまでに限るかは、人によってさまざまであろう。ここでは少々幅を広げて、80年代初めにかけて少年、青年時代を過ごした人としよう。

 団塊の世代のヒロイン、吉永小百合はすでに、本格女優だった。山口百恵はあっという間にスクリーンとテレビの画面から消えていった。ポスト団塊の世代にとって、団塊の吉永小百合に相当する女優は薬師丸ひろ子であろう、と筆者は考える。先行する世代にも、後続の世代にも認識されたという意味で、ちょっと古くさいが国民的なヒロインである。脇道にそれるが、黒沢明監督の「あかひげ」などで知られる内藤洋子は、筆者にとって忘れがたい女優である。彼女もまた、山口百恵と同じように結婚後、スクリーンを去った。女優の喜多嶋舞は娘である。

 薬師丸ひろ子の映画の代表作である「Wの悲劇」(1984年)が、テレビドラマ化された。これは正確な表現ではない。夏樹静子の原作のドラマ化である。テレビ朝日のゴールデンタイムに登場したドラマの主演は、武井咲(えみ)である。10代の女優が、テレ朝のこの時間帯の主演を務めるのは、上戸彩の「アタックNo.1」(2005年)以来だという。

 4月26日(木)放映の特別拡大版の第1回を観た。ちなみに第2回は5月3日(木)である。

 大製薬会社のトップの座にある和辻与兵衛の亡くなった息子の娘、すなわち孫の摩子が武井のひとつの役である。ドラマの展開のなかで、その謎は解き明かされるのであろう、うりふたつのさつき、が武井のもうひとつの役である。摩子が大富豪の恵まれた娘であるのに対して、さつきはショーパブの掃除のアルバイトをするかたわら、売春もする不良の娘という設定になっている。買春の客がカネを支払わなかったことの腹を立てて、そのあとをつけた路地裏で、さつきはその客をナイフで刺し殺し、カネを奪う。殺人担当の刑事である弓坂圭一郎は、聞き込みから常習的に売春をしている、さつきを突き止め、追及する。

  「これは任意の取り調べですよね」と、さつきは切り返す。「一人暮らしの人間がアリバイなんでどうやって証明できるもんか」と、突き放した直後、さつきは弓坂との間を一息につめて、口づけをする。怒る弓坂。ロッカーにつきとばし、さつきの顔面を両手でおさえるようにして、膝蹴りをロッカーに食い込ませる。

 証拠不十分で警察から放免されたさつきの携帯電話に無言の着信があった末に、「あなたのアリバイを作れるのはわたしだけだ」と、姿を現しのが、摩子である。摩子はさつきに対して、ふたりの人生を交換することを提案して、それぞれは互いの人生を歩みはじめる。

  ドラマの冒頭で、買春行為が終わったあとに、さつきが冷えた出前のチャーハンとスープを書き込むシーン。客がカネを払わないとしって、むしゃぶりつくさつきを客はなんなく殴り倒す。ベットに放り出されるさつきのガウンのすそが乱れる。ショーパブの清掃のアルバイトに入れ替わった摩子に対するショーダンサーの激しいいじめ。清掃していた便器のなかに顔を沈められる。汚水のなかで息を吐く摩子の表情のアップ……

 大富豪の孫娘に成り代わったさつきは、祖父のよる性的な虐待に摩子があっていたこと知る。朝食のテーブルの下で祖父の手が、さつきの膝に伸びる。

  ドラマの狂言回しすなわち、登場人物や背景について説明する役は、ショーパブの経営者である一条春生である。彼女が現在進行形で書いている小説が、このドラマのプロットである、という仕掛けになっている。

  第1回目のドラマは、大富豪である和辻家の複雑な人間関係と、その相続問題が、悲劇的な事件につながることを暗示して終わる。

  武井咲は筆者が注目してきた女優である。携帯電話会社のCMによって、その美貌は世に知られるところとなった。

  スクリーンやテレビの画面に現れては消える美少女たちを観るのは、「楢山節考」の作家である深沢七郎の言葉の趣旨を借りるなら、はかなさを愛することであろうか。スクリーンにデビューする美少女のなかから、スターとなる女優を正確に予言する、作家の小林信彦のひそかな喜びがよくわかる。映画「ALLWAS 3丁目の夕日」で東北から集団就職で自動車修理店にやってきた星野六子役の堀北真希がスターになる、と確信を込めた賛辞を送った。筆者の女優に対する評価は、小林に遠く及ばない。しょせんは結果論ではないか、といわれれば二の句がつげない、そんなレベルではある。

 武井咲は、薬師丸ひろ子にはなれない、ましてや吉永小百合にも。それがこれまでの筆者の評価であった。「Wの悲劇」をみて、ひょっとしたら、と思う。

 国民的な女優になる条件として、筆者は常々「声」が大切ではないか、と考えてきた。薬師丸ひろ子の映画の挿入歌を初めて聴いたときの衝撃を忘れない。吉永小百合の歌声を聴いた団塊の世代もそうだったのではなかったか。歌手としてスタートした山口百恵の歌声についても同じような感動をいまでも覚えている。

 それはひとことでいえば、「透明な感じ」ということである。

 武井にはそれが欠けていた。デビューのシングルは、華々しい街頭広告を表参道の駅で観て、その歌声も聞いたがこころに響く透明感がなかった。それは、これまでのドラマでもそうだった。表現を変えるなら、声が通らないのである。

 「Wの悲劇」を観て、発声法がまったくこれまでと違っている、と思った。それは訓練だけではなく、少女から大人への微妙な時期を通過した女優の声であった。

  戦前から戦後にかけて、子役、少女そして大人の女優として、それぞれのステージで開花した、高峰秀子も語っている。娘から大人の女優への転換が最も難しく、子役で終わってしまう俳優は多い、と。

  武井咲「Wの悲劇」が、薬師丸ひろ子「Wの悲劇」のような成功を収めるか否か。

  その時代の美少女を起用したドラマのリメイクは、同じ役を演じた女優へのオマージュ(敬意)がある。「伊豆の踊子」は、田中絹代への。美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵が演じた。武井「悲劇」もまた。演出の片山修は、「木更津キャッツアイ」で薬師丸ひろ子をあさだ美礼先生役とした。今回のドラマのなかで、薬師丸が映画の主題歌として歌った「WOMAN“Wの悲劇から”」を挿入歌として、平井堅に歌わせている。

 片山は1965年生まれ、「谷間の世代」である。         (敬称略)

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  世紀の恋の舞台となったテニス場を過ぎて、鳩山通りを下る。両側に広い別荘地が連なる、軽井沢の並木道は、「風立ちぬ」の作家堀辰雄が歩いたという。

 「ご注意ください!ツキノワグマ情報 ハチの巣を食べた痕跡情報」。道路工事のたて看板のような掲示板に驚く。

 地元のNPOの呼びかけである。保護したクマ22頭に発信機をつけて、24時間体制で監視。別荘地や住宅地に近づくと、駆けつけて山に戻す。

 ニホンシカやサルの出没も増えている。軽井沢町のニホンシカの捕獲数は昨年128頭で、前年のほぼ2倍。生態学者の結論は出ていないが、ニホンシカの繁殖によって、ツキノワグマが追われるようにして、里へ下ってきている可能性もある。

 旧中仙道の宿場町だった軽井沢は明治維新後、廃れた。避暑地として軽井沢を発見したのは、宣教師たちだった。高度成長経済の1970年代、リゾート地として脚光を浴びる。そして、バブル経済の時代には、投資先として。

 この町はいま、新幹線通勤で東京に通う住宅地として、さらには団塊の世代を中心とする人々によって、終(つい)の棲家として「再発見」されている。7月1日現在、1万9493人。平成2年の1万5000人台から比べると約4000人も新住民が加わった。

 人生の終着点をみつめるとき、生活を築き上げたいま住むところか、故郷を思うのではないか。地方から都市への民族の大移動のような時代を経て、人々は帰るべき故郷を失った。第三の選択肢として、自然にあふれた町を目指すのはよくわかる。過疎に悩む町村が、格安な土地を斡旋したり、空き家となった農家を無償で貸したりして誘致を競っている。新しい民族の移動の先頭に、軽井沢は立っている。

 「都市デザイン室」――軽井沢町役場に3人の新しいチームが4月発足した。50年後あるいは100年後の町の計画を立てる、という。コンサルティング会社に計画作りをまる投げするのではなく、町内の3つの地域ごとに住民の意見を吸い上げていく。そのたたき台として、堀辰雄らが宿泊した古い旅館や、空き店舗を活用した街づくりなどの案を住民に示したばかりだ。

 「50年計画」に取り組む職員たちが、バイブルと呼ぶ冊子がある。昭和47年に制定された「自然保護対策要綱」である。別荘の敷地面積を約1000平方㍍としたり、建ぺい率を20%にしたり、法律よりも厳しい規制を課した。バブル時代の投資ブームの際にはマンションに対しても規制を加えた。バブル経済のなかで、列島の各地にリゾート地が生まれたが、いまは見る影もない。バイブルがなかったのである。

 軽井沢の「50年計画」は、少子高齢化が進む日本のなかで、豊かな自然と共生する街づくりの新しいバイブルを作り出してくれるだろうか。

 帰りしなに見上げた浅間山の山麓を、発信機を付けたツキノワグマが動き回っているさまを想像すると、この町を愛する人々の気持ちが伝わってきて、きっとよい計画ができると思った。

  (2012年9 月4 日 フジサンケイビジネスアイ フロントコラム に加筆しました)

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