政治経済情報誌「ELNEOS」11月号寄稿
■AIの進展やグローバリズムによる所得格差の拡大は一気に進んでいる。少子高齢化は進み、年金制度にも不安は尽きない。そんな不安を解消できる仕組みの見直しが進む――
社会保障制度の再構築を目指す
北欧のフィンランドは、女性共同参画社会や教育制度などの先進国としてこれまで世界の耳目を集めてきた。そのフィンランドで今、世界で初めて国全体を対象にしたベイシック・インカム(BI・無条件給付の基本所得)の実験成果とその行方がいま、脚光を浴びている。米国の大統領選挙の候補者選びに影響を与え、EUからの離脱に揺れる英国では、下院総選挙の結果を左右しかねない。
その実験とは、ベイシック・インカム(BI・無条件給付の基本所得)。収入が途絶えたときの生活保障の基礎分にあたる。基礎年金や雇用保険、生活保護の大部分が、このBIに置き換わる。
給付については、行政の審査が伴わない。無条件かつ個人を対象とする。つまり、ある国の市民となれば、生まれた瞬間から受給資格がある。生活保護や雇用保険の支給をめぐって、行政の可否が人命にもかかわる「悲劇」を回避できる。
フィンランドの国全体を対象としたBIの実験は二〇一七年一月から一九年一二月までの二年間にわたって、失業者二〇〇〇人に対して、月額五〇〇ユーロ(約六万五〇〇〇円)を支給した。フィンランド社会保険庁(Kela)は二〇二〇年に実験の最終報告書を出す予定である。それに先立って、一九年二月に発表した中間報告が、世界的な議論を巻き起こしている。
グローバリズムの進展による格差の拡大と、少子高齢化による年金制度の継続性の問題は、ひとり日本が直面している課題ではない。先進国が直面している大きな問題である。
社会保障制度の再構築を目指す、BIがその解となるかどうか。各国の政策当局者や社会保障、社会学などの研究者がフィンランドの実験の中間報告に注目する由縁である。
Kelaは中間報告の冒頭のまとめのなかで、次のように述べている。
「ベイシック・インカムの実験は、最初の一年間で必ずしも支給者グループの雇用のレベルを上げなかった。しかしながら、支給者グループの自身に対する健康感は、実験の最終時点において、過去の状態を上回ったばかりではなく、対照グループよりもよかった」
さらに、この結果はBIの実験の最終的な結論を生むものではないことを留保している。
中間報告はBIが「雇用」と、健康感という「幸福度」に与える影響に注目している。ここで、報告書の詳細をみていく前に、改めてBIの定義とその実現によってなされる社会について、同志社大学経済学部教授の山森亮さんの著作『ベイシック・インカム入門』(光文社新書・2017年)によって整理してみよう。
BIの定義は次の六点である。
- 現物(サービスやクーポン)ではなく金銭で給付される。
- 定期的に支払われる。
- 国家または地方政府などによってh支払われる。
- 世帯や世帯主ではなく、個人に支払われる。
- 資力調査なしに支払われる。一連の行政管理やそれにかかる費用、労働へのインセンティブを阻害する要因がなくなる。
- 稼働能力の調査なしに支払われる。雇用の柔軟性や個人の選択を最大化し、また社会的に有益でありながら低賃金の仕事に人々がつくインセンティブを高める。
BIが普及した社会は次のような理想が実現する。少なくとも貧困を避けるために必要な所得を国民全員に保障する社会は、男女を平等に扱う。家事や子育てなど市場経済がしばしば無視する仕事に報いる。一定の報酬が保証されることから、さらなる教育や職業訓練を促進する。その結果として、技術革新やグローバル社会の変化に対応できる。
Kelaの中間報告が「雇用」と「幸福感」に焦点を当てている理由である。ふ
「福祉の罠」説はほぼ否定された
BIの支給グループの就業意欲についてまず、みていこう。二〇一七年の年間に働いた日数は、支給グループが比較対照グループとの差はわずか〇・三日。一方、同じ年間の労働による収入は、支給グループが四千二三〇ユーロ。対照グループが二一ユーロ多い四千五一ユーロだった。
BIに対する批判のなかで、支給によって就労意欲が衰える「福祉の罠」に陥るのではないか、という指摘は中間報告によってほぼ否定されたといえそうである。ただ、BIによって、生活の不安が拭い去られるので、新たな就労意識が高まる、といえる水準ではないともいえる。
健康感とストレスの視点から、BIの効果をみていこう。人として生きる「幸福感」にかかわる。まず、健康感おいて、「非常によい」と「よい」を加えた割合を、支給グループと対照グループを比較する。前者は
五六%で後者は四六%。支給グループは健康感が高いことがうかがえる。「非常に悪い」と「悪い」の合計を比較しても、支給グループの四〇%に対して、対照グループは四九%である。
ストレスはどうか。「ストレスがない」と「ほとんどない」の割合を合計すると、支給グループが五五%、対照グループは四六%だった。「非常にある」と「ややある」の合計は、支給グループが四五%、対照グループは四五%だった。総合的にみると、支給グループのほうが、ストレスの度合いが低いということがいえる。
Kelaによると、中間報告書に盛り込んだ以外に、面接調査なども含んでいて、それは今春まで継続された。この結果も入れて、二〇年までには最終報告書が出版される予定である。
「ベイシック・インカムの実験は、たぐいまれな社会実験である。それは、国内規模でボランティアを募る方式ではなくランダムに対象を選び、国内的にも国際的にも意義がある」と、Kelaは中間報告を位置付けている。
こうした社会実験を試みた、フィンランドの経済、社会情勢を顧みたい。そこには、先進国の国内で進行する格差と、社会保障を揺るがす財政赤字の問題が浮かびあがる。
フィンランドは、先進国の先頭を切って、社会実験をしなければならなかった。さらにいえば、日本の社会保障制度の現状を改革する先例になる可能性もあるといえるだろう。
格差と財政悪化が政府の背中を押した
フィンランドは一九九五年にEUに加盟し、九九年にユーロを導入した。北欧諸国のなかでは、EUに加盟しながらも、ユーロを導入していないスウェーデンとデンマーク、EUに非加盟のノールウェーとアイスランドとは一線を画している。EU圏のなかで、八〇年代には携帯電話のノキアなどの工業と農林水産業のバランスがとれた「EUの優等生」だった。ノキアがスマーフォン市場で苦戦を強いられことなどから、九〇年代後半からはぐロバリズムの波にも洗われて「欧州の病人」とまで呼ばれるようになった。高齢化が財政の悪化に追い打ちをかける。
フィンランドの政府純債務の対GDP(国内総生産)比は、二〇一四年からEU基準の六〇%を超えた水準で推移している。
高齢化率(人口に占める六五歳以上の比率)は二〇一八年に日本がトップの二七・四%。フィンランドは、イタリヤ、ポルトガル、ドイツイ次いで五位の二一・六%である。
格差を表すジニ係数(1に近いほど格差が大きい)は二〇一六年に、南アフリカの〇・六二を首位に中国の〇・五一、インドの〇・五〇が続く。日本は〇・三四の一八位で、スペインとギリシャの中間に位置する。フィンランドは〇・二六の三八位で主要国のなかでは格差が低い水準にある。しかし、北欧諸国のなかでは、三九位のアイスランドを除けば、スウェーデン、デンマーク、ノールウェーは僅差ながら、フィンランドよりも格差の水準が低い。
フィンランドのBIの社会実験は、社会保障制度の理想を追うと同時に、グローバル時代の格差と政府の財政が悪化する要因が背中を押しているといえるだろう。
フィンランドは、ロシア帝国領フィンランド大公国時代の一九〇二年に、世界で初めて女性に対する被選挙権を認めた。九〇年代から本格的に取り組んだ教育改革の結果、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度に関する国際調査(PISA)で、対象の一五歳の学力が、読解力や数学的リテラシー、科学リテラシーの分野で高い水準を示している。
ロシアとドイツの強国にはさまれる地政学的な位置にあって、創意工夫をしながら民族としての存在を保ってきた。第二次世界大戦では枢軸国側に立って戦ったが、最後まで激戦を繰り広げ、唯一領土を奪われなかった。
同志社大学経済学部教授の山森さんの前述の著作によると、BIはフィンランドのオリジナルというわけではない。二〇世紀のイギリスを代表する哲学者である、バートランド・ラッセルが『自由への道』(一九一六年)で世に説いている。さらには、七〇年代のイタリヤのフェミニズム運動において、「家事労働にも賃金を!」というスローガンもBIに通じていると、山森さんは述べている。
ザッカーバーグ氏も同様のアイデアを持つ
フィンランドの社会実験を世界はどうみたか。政治、経済などのリーダーが連携して世界的な課題に取り組んでいる「世界経済フォーラム」は、中間報告の発表後まもなくシニアライターの「フィンランドのベイシック・インカムの結果はでた。それは十分な働きができているのか」と題する論文を掲載した。
そのなかで、著名な金融家やフェイスブックのCEOであるマーク・ザッカーバーグが同様のアイデアを持っている、としている。「(BIの)批判派は、コストがかかり過ぎるのと、実践的ではなく、人々に仕事を探す意欲を減退させるだろう」と述べた。
英BBCもやはり中間報告後に、「フィンランドのベイシック・インカムのトライアルは人々をより幸福にはしたが、失業はそのままだった」と題して報道した。「(BIの)支持者は非伝統的なセーフティ・ネットが人々を貧困から助け出すと信じている。それは、人々に仕事や必要な新しいスキルを学ぶ時間を与えるのである。ロボットが人々の仕事を奪うオードメーションの時代にますます重要性が増していくと考えている」としている。
人工知能の時代を間近に知っている、起業にBIの理解者が多いのはうなずける。
二〇二〇年の米国大統領選に向けて、共和党と民主党のなかで進んでいる候補者選びのなかで、ダークホースといわれているのが、台湾系アメリカ人の起業家のアンドリュー・ヤングである。「フリーダム配当金」と名付けた、彼のBIは、アメリカの一八歳から六四歳までの全国民に月額一〇〇〇ドル(約一一万円)を支給するというものである。財源についても、新たな税の導入や福祉目的のファンドの創設など、段階を踏んだ具体的な提案を行っている。トランプを大統領の地位に押し上げた、低所得の白人の支持をうまくつかむことができれば、再選を狙うトランプの前に大きく立ちふさがる、という見方もでている。
世界的潮流にも日本では政府任せ?
英国のEUからの離脱の状況いかんでは、一二月に下院の総選挙がある。労働党党首のジェリミー・コービンは九月末に社会保障制度改革について重要な演説を行った。保守党によって一三年に導入された、低所得者向けの給付制度の「ユニバーサル・クレジット」を廃止する、というのである。この制度は複雑で官僚的とされる。
この制度に代替するものについて、労働党はいまのところ言及していないが、BIが有力であるとみられている。労働党の影の内閣の閣僚のひとりは、BIの熱心な支持者であり、広範な社会実験も提唱してきた。労働党が掲げる社会保障制度の改革の三大方針は、「尊厳」と「ユニバーサル」、「貧困の終了」である。
日本政府は九月二〇日、安倍晋三首相を議長とする「全世代型社会保障検討会」を発足させた。二二年以降に、「団塊の世代」が七五歳の後期高齢者になって、日本の少子高齢化は社会保障の制度設計の変更を迫られる。医療や介護の負担増が焦点になると思われる。年金制度の継続性の問題も大きい。
人口知能革命の波はすでに、日本列島に打ち寄せている。メガバンクの大リストラ計画や希望退職の募集の増加は、緩やかな景気回復のなかでもとどまるところを知らない。
世界的な潮流となっている、BIの論議は、日本のなかで政府任せでは高まりようがない。前回の総選挙で旧・希望の党がいったん公約に掲げようとしたが、尻切れトンボに終わっている。野党が政府・与党に対して、総合的な社会保障制度の改革案を示すべきである。しかし、それは百年河清を俟つことなのだろうか。
(了)