羽田国際空港とアキバを船で結ぶ
フジサンケイビジネスアイ 高論卓説 寄稿。
東京・銀座のバーで飲んでいると、マスターが「ちょっとでかけてくる」といって店の裏口に留めておいた小舟をこぎ出す――そんなエッセイか小説を読んだ記憶があって、書架を探し回ったがみつからなかった。
川は流れてはいないが、数寄屋橋や三原橋の名称に名残がある。
東京はいま、水辺の街の記憶を取り戻そうとしている。
国土交通省と千代田区は、都心と羽田国際空港を水上の定期航路で結ぼうとしている。9月下旬のシルバーウィークに、その実験運航に参加した。秋葉原の万世橋から品川を経て、羽田に向かう全コースを体験する予約は満席だった。品川の天王洲から羽田までのコースに申し込みができた。
定員40人乗りのクルーザーは、秋晴れの日差しのなかを進んでいく。運営会社が麦わら帽子を貸し出していた。それでも肌にあたる陽は、痛いように突き刺さる。
船は京浜運河を下って、多摩川を目指す。船の舳先(へさき)の右前方に、東京モノレールが羽田を目指して疾走していく。
桜の名所として知られる目黒川と交錯する水門に、クジラの大きな絵が描かれている。1790年代末に東京湾にクジラが迷い込んだ逸話による。近くの利田(かがた)神社にはその時のクジラの骨を埋めた「鯨塚」がある。
運河からの眺めは、陸上では味わえない風景が展開する。左手に広がる京浜島の「つばさ公園」の緑の豊かさが目にしみいるようだ。水路にそって釣り糸を垂れる人々のなんと多いことか。多摩川の河口にでると、大河のようで驚かされる。船から見た航空機の離着陸も迫力がある。
羽田の桟橋まで小一時間、国際線ターミナルまではバスで5分もかからなかった。 国や千代田区は、2020年東京五輪を目標にして、定期航路を実現しようとしている。外国人観光客が、隅田川を上って神田川に入り、「アキバ」に到着する。外国人観光客が、首都の風景を眺めながら、ガイドから江戸と東京の成り立ちを聞くのはさぞ楽しいことだろう。
東京が水辺の記憶を失ったのは、まず終戦直後である。都の都市計画課長だった石川栄耀氏が立案した、再建案は区部の人口を350万人として、都心から約40㎞圏に平塚、町田、八王子、立川などの衛星都市を配置するなど、都市機能を分化させる大規模な計画だった。連合軍最高司令官総司令部(GHQ)は、膨大な予算を認めず、実現されたのはその一部だった。このために、瓦礫の一部は掘割河川を埋め尽くした。
1964年東京五輪もまた、首都高速道路やモノレールの建設のために用地を買収する予算を削減するために、その橋脚を河川に求めた。
画家の横尾忠則氏は90年代半ばのエッセイ集「東京みおさめレクイエム」のなかで、「濠が消えて、同時に情緒も死んだ。数寄屋橋のあった所に立って瞑想すると、網膜の裏にありし日の濠の風景があぶり出しの絵のようにジワジワと浮かんでくる。近代都市の陰から顕現する幻影は、まるで亡霊のようだ」となげいた。水の都のさらなる復活を願う。